頭の病気とは

頭の病気ゃけんね。一緒に起きてホウレンソウの玉子とじを作ってやって、お茶を用意してやって、玄関出るまで起きとかんと気が済まんとよ」 少しずつみつこさんのいつもの口調が戻ってくる。いつものように、玄関と全 部の部屋の窓を全開にしたみつこさんのお宅に柔らかく風が通り抜けた。風の通 り道を知っているみつこさんは、居間と台所の中聞に腰を下ろした。床に直接、 ラフに座るみつこさん。 「うちはこげん、きちーっとしとかんと気が済まんとよ。頭の病気。この前もお父さんの シャツの襟元がのびてたから新しいシャツを渡したら、うちは予備もちゃんとあるったい、袋から出して『はいどうぞ』つでしたのに、こげん丸首のは苦しかつて言うから 字のを用意しといたのに、『首のところこげんなっとう 「えのは、これでええんか?』って。だからこういうのは苦しいって言うけん、こげんなっとうのをわざわざ買ってきとうのに、ありがとうって素直に着ればいいも のを『こげんなっとうのはこれでええんか』って言うからもうそれで頭痛うなって。そういうひとことひとことがストレスになるんやろうね」 私の適当な相づちにもかかわらず、みつこさんは段々ご機嫌になってくる。「ふふ」と思い出し笑いのような表情を浮かべると、「うちには、超能力があるとよ」とやや低い声でにんまり笑う。 「昭和天皇が死んだ時、うち、なーんか『へい』っていう響きが頭から離れんかったとよね。

出典:介護職員初任者研修 最短

育児と条件

うっとうしかった大人の話がすんなり耳に入ってくるという事実。夢を熱く語られるより、日々の愚痴を聞く方が安心する自分。そのうち体調不良の話題で盛り上がることができるのであろうか。 エンジンをかけ、ダッシュボ ドの駐車許可証をしまう。ダッシュボ ドに白っぽい物を置くと反射して見にくくなるのよ、と話していた母の言葉をふと思い出す。  母の言葉は、いつでもふっとやってくる。考え事をすると、母が出てくる。自分について、人生について、過去について、未来について、何を考える時でもふっと思い出すのだ。参考までに、といった感じで。雨の日の道路は光がにじんでいて、道にもライトが反射して、きれいだねと言った私に「でも、こういう日が一番危ないのよ」とも言ってた母。そういえば、私の言葉に母は「そうね」と返してくれたことが少なかったんじゃないかしら。母の言葉はいつも正しい。そし てそうは思っていても、こちらが反発したくなるような何かがあった。 ラジオが笑っていた。 の聞きなれたナビゲ タ の声、いつも大笑いしているような、そして大笑いできることがプロっぽいと感じさせるような雰囲気。駐車許可証はほかほかになっていた。  2年前までは私は正社員だった。サービス提供責任者というなかなか立派な肩書きだった。常勤であるその役職にはささやかな条件が付けられていて、私は一応その条件をクリアしていた。娘が 2歳から 4歳になるまでの 2年間、周囲に少 なからずのご迷惑をおかけしながらも、私は育児と仕事を両立していた。

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虐待という話題

冷蔵庫の裏の挨が気になったり、スーパーで買う食材の包装の細菌が気になったりするのだろう。 洗濯は活動予定の時間以内できちんと終わる。記録も書き終えた私を、みつこさんは丁寧に玄関で見送ってくれるのだ。「気をつけて帰りんさいよ、うちに来た帰りに事故に道わんでよ」そして「ありがとうございました」と深々と頭を下げてくれる。壁にかけられた小さなキティーちゃんのぬいぐるみが、風で少し揺れた。   玄関を出て車までの移動中は、気分はまだ訪問先のお宅の中と変わらないのに、車に乗り込みドアをパタンと閉めると急にいつもの自分に戻る気がする。河歳や別歳と会話していた、やや知ったかぶりの主婦という私から、子供時代を卒業してからまだ幾分も経っていないような気がする、けれど確実に年齢だけは重ねてしまった、中途半端な私へ。 人生の大先輩方の話は興味深い。子供を持ってから、人の思い出話が聞けるようになったと思う。世間話も上手になったものだ。子供という存在がいとおしい のに、時々本当にうっとうしいものに思えたり、恋愛をして好きな人と一緒になれたのに、死ぬまで一緒にいるだろうという事実にぎょっとしたり、児童虐待や熟年離婚という事件が妙に納得できてしまったり、ぶっちゃけ愛よりお金だと堂々と言えるようになってしまったり。高校時代、「隣のおじいさんと話が合うようになっちゃってね」と生徒を笑わせた数学のおじいちゃん先生をふと思い出す。

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自分自身にかざす課題

しかしそれは、みつこさんの決めたル ルではあるものの、死守してはならないことも、すぐに気付いた。「今日は、よか」と彼女が言えば、ルールは白紙に戻される。 要するに、私は従順な「みつこさんの手」にならねばならないのだ。 確かに、みつこさんには「超能力」に近い何かがあるのかもしれない。鈍感な 私たちには感じることのできない何かに敏感に反応し、いつも神経をぴりぴりさせている。彼女の中では、次の次の次くらいまで、何かが分かるのかもしれない。部屋が汚れる前に掃除を済ませ、パイ菌が付く前に消毒をする。 息子や孫が今度来るって言うから、あれの準備をしておかなくちゃ。お父さん の病院行きが増えるかもしれないから、ヘルパ の時聞をどうしたらいいのか聞かなくちゃ。そういえば、今日はあそこのスーパーで安売りをするから、まとめ て買わなくちゃ! 彼女の思考はどんどん加速する。じっとしている暇はない。ああ、どうして体 は言うことを聞かないのだろう!  もし私が完壁に「みつこさんの手」になれたら。ほんの数分、仕事をひとりで任せてもらえる時に私は考える。もし彼女のご主人や、彼女のご近所や、彼女を取り巻くすべての環境が彼女の思いどおりに動いたら:・。すべてのものが清潔で、無駄のない動きをし、彼女の神経を逆なでしない環境。そしたらみつこさんは壊れるわ。私は聞こえないようにつぶやく。彼女はきっと、さらに無理な課題を自分自身に課すのであろう。

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年相応のしわ

お父さんにも『次は、へい、とかなんとかになるんやなかろうかね。でも、そんな、 へい、ゃなんて、毘みたいであるわけなかよね』とかつて笑って 話してたら、『平成』になるんやもん、びっくりしたわ 」 l 私は素直に、そしてちょっぴり大げさに驚く。  ほんとですかあげ」 「嘘なんか、言わんわね」みつこさんがノッてくるのが分かる。無邪気に楽しげな表情をして、「お父さんも驚いとったよ。聞いてみるといい」と言いながらゆるくウェーブの かかった髪を無造作にまとめ上げた。背中は曲がってきてはいるものの、年相応のしわが刻まれているものの、みつこさんはきれいな女性だ。彼女の洗濯物は、決して安物ではない。 洗濯機は忠実に自分の仕事を続けていた。みつこさんの洗濯機は 2槽式だ。締麗好きのみつこさんの洗濯の仕方は、①洗濯物を分別し、②それぞれネットにいれ、③たっぷりの洗剤と柄物にも使える漂白剤をいれ、④叩分まわし l り脱水 2分間の溜めすすぎ(これをするのとしないのでは本すすぎで差が出ると 3回は言われた)しっかり脱水注水しながらの本すすぎ、っかり脱水、で、できあがりとなる。 その聞にも本すすぎ後の脱水した水はベランダの手すり拭きに使、っとか、待ち l 時間に記録を書いてしまうとか、洗剤の入った液には素手で触れずゴム手袋を使用とか、洗濯槽のゴミは無視してよし(彼女は洗濯物が指に巻きつくという事故を極端に怖がっているよう)とか、小さなル ルがたくさんあるのだ。

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